ましゅ公と愉快な呟きたち

いろんなことについて書きなぐりたい。そして、それが誰かの役に立つといいなと夢想するブログ。

ましゅ公と愉快な呟きたち

人生思い悩んだらハンドソープを買い換えればいい。

 

今日も明日も、そして昨日だって大して良いことがなかった。

 

今日という日は今日しかないのに、それがずっと続いているよう。

子供の頃は毎日毎日があんなにも色めき立っていたのに、大人になった今では毎日毎日が昨日から続いてそして願っても願わなくても明日へと続いていく。

ただそれだけの日々。

そして、それを知りながら消化していく人生。

 

 

心理学の本を読むとよく名前が出てくるセリグマンの実験を思い出す。

 

 

確か「学習」の実験の話だったと思うけど、2つの檻に入れられた犬がいて、彼らをA、Bと呼ぶとしよう。

 

Aが入れられている檻にはボタンがついていて、Bの檻には何もない。

被験者である犬が入れられている檻の床には電流が流れる構造になっていて、檻についているボタンを押すと止まる仕組みになっている。

 

Aの犬は最初流れる電流になすすべがなかったが、ボタンを押す事を「学習」した結果、電流が流れるたびにボタンを押して回避するようになった。

けれどもBは・・・?Bは電流に大して何もすることができない。

最初はなんとか電流を止めようとして檻の中をうろうろするも、何もできないことを悟と諦め、電流が流れるたびにただ苦しみに耐えて弱く鳴くだけになってしまった・・・それもまた「学習」の一つの形なのだ、と彼は言ったのだそうだ。

 

という、あの話(確かそんな話だったかと・・・)。

 

私はこれまでも、そしてこれからも大した人生は送れないだろうし、自分ができることには限りがある。それでも生きている以上は生命活動を維持するだけのことはしなければならない。

そこに伴う出費に多少の頭痛を感じ、世の中に溢れる新商品情報のニュースやグルメの紹介などを横目で見やり(がっつり見るけど見ないフリをし)、どこで羽目を外せば良いのかもだんだんわからなくなり。

 

生きることに伴う電流に、私は、私たちはただただ耐えるしかない。

それはあの檻に入れられた為す術のない現状を結局受け入れざるを得なかったBと似ているではないか。

 

 

だから最近、ハンドソープを変えた。

 

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避けることのできない電流を忘れさせてくれる「何か」を、ここ最近ずっと探していた。

服だろうか、コスメだろうか、それとも・・・色々考えていた。けれどもずっと愛用していたミヨシのハンドソープがなくなり、そしてたまたま出先で見つけた1本4000円もするハンドソープを、直感で買った。その時だけは値段に鈍感になっていた。

 

そしてその直感は正解だった。

 

ハンドソープに目を向ける人はどれくらいいるのだろうか。

シャンプーの評価は気になる。だって髪のまとまりは身だしなみの一環だから。

ボディソープの評価も気になる。だってツルツルスベスベでいることが世の若い男女の悲願めいた盲信だから。

この二つに比べたらハンドソープをそこまで気にする人はいない気がする。

 

けれども考えてみてほしい。

この3者のなかで一番使うものはハンドソープなのだ。

1日最低数回は使うもの。

1日に1回程度使うものに全力をかけるよりも、何回も使うものが「使いたい」と思えるものであればクソみたいな人生もちょっとは豊かになる。

今まで特段気にしたことのなかった手を洗う行為が、たちまち記憶したくなる行為に変化するのである。

 

 

別に数千円するハンドソープをすすめている訳ではなく。

普段ドラッグストアで適当に選んでいるものを、ロフトとかハンズに行ってそこで売っているものからピピッときたものを買うのだって全然アリ。

何か自分のこだわりを反映させてほしい。

 

 

最近、家で手を洗うのが心から楽しい。

匂いも数ある中から私が好きなものを選んで

値段が高いけどそれでも買おうと思って買った。

私の些細なこだわりが詰まったハンドソープ。

それを使うことが楽しくないわけがない。

 

 

無気力な人生に自我を投じた。

それは荒れ狂う濁流に一本の杭を挿したようなもの。

多少の抵抗は生まれるものの川の流れを左右するには遠く及ばない。

いつか私も自分の足で立って歩く時が来るのだろうか。

そんなことを頭の端っこで考えながら、今日も明日も、まだ代わり映えのない日常を送っていく。